頑張らずに生きる。

生きる知恵や世の中の真理、スピリチュアルについて書いてあるブログです。

苦しみの中に生きる人

自分の事が好きですか?

と聞かれ、「はい好きです」

と答えると日本では多くの人が「この人はナルシストだ」とか「自信過剰な痛い奴」とマイナスのイメージを持つことが多いです。

 

そして自信がない人だとか自分の事を過小評価する人の事は受け入れやすく、自分もそうあるべきだと考えます。

 

どうしてこんな考えになっているんでしょう。

 

まさにそれは生まれた時から大人になるまでそして社会人になってからも続く刷り込みが原因です。

 

 ~刷り込みの罠~

生まれたばかりの子供に対して「元気に育ってくれたらそれだけでいい」と多くの親が願っています。

そして大きくなるにつれて「あれはダメ」「これはダメ」

子供はただ自分を精一杯表現したいだけなのに、「泣いてはダメ」「大きな声を出してはダメ」と言って親の言う事を聞かせようとします。

 

小さなうちはまだ刷り込みがされていないので、子供はとても自由で自分を謳歌しています。

悩んだり難しく考えたり誰かを憎んだり怒りを引きずることなく瞬間瞬間を楽しみ、ありのままの自分になんの不満もありません。

子供は大人よりもずっと進歩していて魂の本質を生きています。

 

学校に入ればますます委縮するようになり、先生から評価され親から評価され、先生が望むもの親が望むとおりにすれば褒められて、そうでなければ叱られる。

私たちはこうやって誰かの望むことをすれば自分は評価されると少しずつ刷り込まれてきています。

自分をありのままに生きたり表現したりすることよりも、枠組みの中にきっちり収まるようにと教えられます。

少しでもはみ出すような子は問題児扱いされて「こうなってはいけないんだ」と自然に考え始めます。

社会に出てからも私たちは同じように振舞います。

「会社に行かなけらばいけない」「お客様にもっと喜んでもらわなければいけない」「お金を稼がなくてはいけない」「人に合わせなければいけない」「空気を読まなければいけない」「我慢して耐えなければいけない」「評価されなければいけない」「もっと上を目指さなければいけない」

こうやって小さいころから今の今まで多くの刷り込みをされてきた私たちは自分の事を置き去りにして、「誰かや何かを求める人生」を生きてきました。

才能がある人は称賛され、肩書がある人は信頼され、お金持ちは羨望の眼差しを浴び、結婚という幸せを求め、ボランティアをやればいい人の烙印を押し......

なにかを所有していたり何か特別なことをしなければ自分を肯定できない。

「~しなければならない」「~するべきだ」という考えに憑りつかれ、それが出来ていない私はダメな奴だと自分で自分を戒める。

こうやって私たちは何年も何世代にも渡って自分自身に対する罪の意識を作り出し、自分を苦しめてきています。

 

もういい加減に一人一人が気づく時です。

しなければいけないことなんてこの世には何もないんです。

自分を追い込みありもしない罪を作りだすのはやめましょう。

自分を好きになるのはすごく簡単です。

誰かに悪口を言われ批判されても、誰にも認めてもらえなくても、孤独を感じていても、あなた自身が自分を好きであればそれだけでいいんです。

「自分を好きになれない自分」もひっくるめてあなたなんです。

そんなあなたを肯定してください。

弱さも欠点と思ってしまうものも全て。

そのままでいいんです。

24時間365日ずーーーーーっと誰よりも一緒に居る「自分」ですよ?

一時も離れることの出来ない自分を認められないことは、わざわざ大嫌いな人と結婚をして一緒に暮らすようなものです。

お金持ちにならなくても特別な才能がなくても異性にモテなくても慈善活動をしなくても、あなたは「今日も生きている」これだけで素晴らしいんです。

そう、本当は息をして存在しているだけで素晴らしいんです。

なにか自信になる結果を残したり、行動しなければ愛せないのは幻想です。

思い出してください。

あなたは「ただ元気に育ってくれるだけでいい」と願い願われて生まれました。

そう、ちいさな子供の状態が答えなんです。

ただ存在し、泣きたいときに泣いて寝たいときに寝て今をただ生きている。

それを大きくなるにつれて周りの期待や願望、評価に振り回され本当の自分を見失っています。

 

~存在しているだけでいい~

ただこの場所で息をしているあなたを認め素晴らしいと決める。

あなたが自分を愛していれば誰からの愛も必要としなくなります。

他の誰かに認められなくても評価されなくても、自分を受け入れ愛してさえいれば充分なんです。

あなたはすでに満ち足りています。

足りないものは何もありません。

今まで刷り込まれてきたものを手放し、思い出してください。

何かが出来るから、特別な才能があるから、人気があるから、徳を積んでいるから、お金持ちだから、ルックスがいいから....

条件は一切関係ありません。

あなたは存在しているだけで素晴らしいと。

他の誰のために生きるでもなく、自分の人生を生きるんです。

 

 

 

 

 

「愛」って何? ~その2~

では「やりたいからやっている」という視点で愛を与えるというのはあまりにも自分勝手ではないか?という疑問が出てくるかもしれません。

自分が良ければそれでいいという風にも見えてしまいます。

ストーカーのように「自分さえよければ相手が嫌がっていようが自分の気持ちを伝える」ということになるんじゃないか?

ストーカーなどの場合は自分がやりたいからやっているんではなく、相手に執着しているということです。

相手が言動にしろ行動にしても自分の期待通りのものを与えてほしい、または与えてくれなかったから相手のせいで自分はこんな風になっているという被害者意識を持っていることが多いです。

 

その1でも言いましたが相手に対して愛があれば、相手に期待通りのものを求めることも無いですし、ただ自分が愛を与えたいからしている。それが満足なんです。

 

そして「相手の為に」というのも厄介で、言葉だけ聞くときれいなことのように思いますがこれは「相手の為にやってあげてるのだから喜んでもらって当然」という考えも含んでいる事があります。

「相手の為に」と思ってやっていたことが実は相手の為になっていなかった。ということはありませんか?

相手にしたら有難迷惑だった、必要なかった。という場合、良かれと思ってやっている側は「もう二度とするもんか」とへそを曲げてしまうかもしれません。

 

しかし「自分がやりたいからやっている」という思いで相手に対して何かをすれば相手が喜ぼうが必要ないと思われようが自分がやりたいと思って勝手にやった事だから責任は自分にあるというマインドになります。

 なので、相手に恩着せがましくなることもなければ誰かのせいにしたり環境のせいにすることも無い。

誰かに言われて嫌々やるのではなく、自らが望んで行動する。

この視点は「愛」を相手に与える行為だけではなく、すべての行動に当てはまることなのです。

 

 

~もうすでに持っている~

誰の中にも「愛」は必ずあります。

極悪非道な人にも犯罪者にも誰にでも。

「自分は優しくないし愛がある人間ではない」と思っている人にも必ずあります。

愛を感じられない人はただ深く眠っているだけなのです。

それがふとしたキッカケで愛を感じられるようになるかもしれません。

 

「愛」は自分自身でもうすでに溢れるほど持っています。

誰かに依存しなくても何かに依存しなくてもあなた自身が枯れることのない愛の塊なのです。

お金は出費し続ければいつか無くなってしまうかもしれません。

でも「愛」は与えても与えてもなくなることはないんです。

なのでケチっても仕方がない。

お金や物をあげるだけが優しさではありません。

人それぞれの優しさがあり表現方法があります。

そしてそれぞれの魂の成長段階があって、成長が早いほうが優れていて成長が遅いほうが劣っているのではありません。

すべての人、今ある全てが完璧なんです。

どんな人でも必ず進化していきます。焦らなくていいんです。

退化しているように見えても人は世界は進化していきます。

あなたが愛に覚醒すると、目に映る全てのものに神聖さを感じるようになるでしょう。

そしてただシンプルに「自分を生きる」これでオールオッケーです。

「愛」ってなに? ~その1~

そもそも「愛」ってなんだろうと疑問に思ってしまう事はありませんか?

よく「愛する」とか「愛」という言葉を耳にしたり目にすることがありますが、「愛する」とか「愛がある」ってなんだろうと。

 

頭でいろいろ考えてしまうとこれは愛がある行為でこれは愛がない行為だときっちり分けたくなりますが、愛を思考で捉えても答えはいつまでも出ません。

愛は感じるものであり、考えるものではないからです。

 

抽象的に聞こえるかもしれませんが、ハートで心地良いと感じるものすべてが愛なんです。

今この瞬間を楽しみ喜ぶ事もそうですし、感謝すること、自分の欠点も人生も全てこれで完璧なんだと受け入れること、人を裁いたり批判したりせずありのままを認める時、子供の顔を見て溢れてくる気持ち、誰かを許すとき、自分と違う価値観の人の意見を尊重するとき......

 

様々な状況で「愛」を示し、感じることが出来ると思っています。

必ずしも「愛のある人間にならないと!」とか「思いやりのある人間にならないと」なんて考えたり人に強要しなくていいんです。

「こうあるべき」という考えで外部がその人を更生させたり変化を強要したりしても、その人を変えることは出来ません。

変わったように見えてもそれはその人自身が変わったのであり、あなたがその人を変えたのでは決してありません。

人それぞれにはタイミングがあります。

ピスタチオが熟してくると勝手に殻が開いてくるのと同じように、それぞれ殻が開いてくる時期があり、熟している実は少しの力で殻が完全に剥けてしまいます。

逆に未熟な実はいくら力を入れてもその殻を剥くには難しいでしょう。

それぞれが自分の魂に沿って成長している。

そしてその過程を楽しむか、起こる状況に一喜一憂して振り回されるかは私たち一人ひとりが選択できます。

 

 

~愛の皮を被ったエゴ~

「こんなに自分は愛しているのに」と言って相手に同じだけの愛を見返りに求める。

そして相手から見返りがないと怒ったり、不満を漏らし相手に変わってほしいと願う。

よく恋愛でありがちな事ですよね。

さてこれは「愛」でしょうか?

「私は確かに彼の事が好きだし、彼の望むような彼女になっているつもりだし浮気も一切してないし、愛を与えています。彼からの愛をもらいたいと思うのは当然ですよね」

と思うかもしれません。

好きな人から愛されたいと思うことはとても自然なことだと思います。

ただ、愛を相手に与えるも与えないのも本人の自由なのです。

たとえ相手にたくさんの恩があったとしてもそれを返すか返さないかは本人の自由であり、返したければ返せばいいし、返したくないのであれば返さなくていいんです。

それを「やってあげたから」とか「恩を着せる」ようなやり方で相手を縛ってもそれは「相手の為」だと言えるでしょうか。

与えない相手に対して「義理がない」とか「薄情だ」とか決めるのは相手から何かしらの見返りを期待していたという事になります。

それは相手の為ではなく、自分のためにしていた人です。

愛ではなく、相手を自分の都合のいい存在にしたいという自分のエゴです。

本当に愛を与えている人は自分自身が勝手にやっていることを自覚しています。なので相手から見返りがあろうが無かろうがどうでもいいんです。

やりたいからやっている

ただそれだけなんですね。

 

その2へ続く

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「死ね」「ブス」「バカ」と言われても全く気にしなくていい ~その2~

~ゴミを飲み込まない~

 

ネットの誹謗中傷なんかも同じことが言えます。

増してや直接見たことも関わった事もない人なのですから、あなたのことを何も知らないわけです。

仕事の同僚や友達、夫婦や家族でさえも本当のあなたをわかっている人はどれ程いるでしょうか。

 

悪口や誹謗中傷は、言っている本人の中にある感情のゴミです。

そのゴミをあなたは飲み込みますか?

言われたことを自分の事だと受け取ると、そのゴミを飲み込んでしまうことになります。

するとあなたは傷つき、怒り、同じく相手を攻撃するでしょう。

そしてお互いが「自分のほうが正しい」と戦います。

 

その1でも話したように、それぞれが違う世界で生きているので「正しい」や「間違い」はその人の中だけに存在するものです。

一人一人がそれぞれの「正しさ」を持っているので、あなたにとっての「正しさ」を他と比べて間違っているとしたり批判したりしてもそれは不毛な戦いになってしまいます。

 

ゴミを吐かれても決して飲み込まず、あなたはありのままで素晴らしいんだということを思い出してください。

これは自分に対して嘘をついているわけでもなく、麻痺させるわけでもない。

ただ本当に自分自身にこの事実を落とし込んで生きれば、今からでもあなたは人のゴミを飲み込むことは無くなります。

 

~あなたは自分を信じていればいい~

これは「あなたは素晴らしい」と言われた場合にも同じことが言えます。

あなたは誰かから「素晴らしい」と言われたとしても、あなたは影響を受けない。

あなたが誰でどれだけ素晴らしいかはあなた自身が知っていることであり、

誰かから認められ受け入れられる必要はどこにもないからです。

自分を受け入れ信じていれば、他にどう思われようが言われようがなんとも思わなくなります。

だって自分が一番自分の事を知っているし認めているから。

 

~自分から始める~

 

世の中には自分のありのままを認めてあげられない人がとても多く感じます。

「私にはなにも出来ないから」「容姿が悪いから」「異性に好かれないから」

全て外側に意識を向けて、誰かから認められたり好かれたり受け入れられたりしてやっと自分に価値を見つける。

もしそれがないと不安で不安で自分は何の魅力もない劣等感の塊のような人間だと思い込んでいます。

それは違います。

何か特別なことが出来なくても、あなたはすでに愛に溢れた存在なんです。

そばにいる誰か、自分自身に愛を示すことが出来ます。

自分を認めて尊重し、相手を認めて尊重することが出来ます。

相手のゴミを飲み込まず、どれだけ周りがゴミを吐き続けてもあなたは決してゴミを吐かないでしょう。

言葉をゴミにして相手に飲み込ませるか、人々を幸せにし喜びに変える力として言葉を使うかはあなたが決め、あなた自身が行うことです。

今日から、いえ今すぐにでも出来ます。

これを読んであなたの心が頷いているなら、ぜひ意識して行動してみてください。

あなたが見ている世界はきっと変わります。

 

 

 

「死ね」「ブス」「バカ」と言われても全く気にしなくていい ~その1~

タイトルが少々過激になってしまいました.......笑

 

あなたは誰かの言葉に傷ついたり、逆に傷つけてしまったことはありますか?

 

私はあります。

 

特に思春期や子供のころは周りの友達や親、先生などの言葉をそのまま受け止めてしまい悩んだりしました。

 

最近は、SNSの普及により見ず知らずの人から受ける誹謗中傷が取り上げられ社会問題になっています。

 

人からの言葉に傷つきたくないですよね。

そして自分も人を傷つけるような人間になりたくない。

 

今から話す真実に触れれば、あなたは人からどんな酷い言葉や行動をされても全く気にならなくなります。

  

 ~悪口は自分のことではない!?~

想像してください。

 

誰か(知人でも親でも友達でも知らない人でも)に目の前で突然

「ほんとブスだよね」

と罵られたとしましょう。

 

どうですか?

 

ムカつきませんでしたか?

ムカつきますよね。突然ブスなんて言われたら。

でも大丈夫。

目の前で「バカ」でも「ブス」と言われても

それはあなたとは無関係の事だからです。

 

 

~悪口は言っている本人の問題~

「ほんとブスだよね」と目の前で言われても、それを自分のことだとして受けとってはいけません。

なぜならそれは言った本人の単なる意見、考え、見方だからです。

もっと言うと「ブス」として見えているのはあなたの事ではなく、言った本人の中にそういった姿があるからです。

悪口を言うということは、相手に対して言っているのではなく悪口を言っている本人の中に同じものがあって単にそれを表に出しているだけなんです。

あなたが「ブス」だからではありません。

言っている本人の中に「ブス」がいるからなんです。

言われた言葉に対して怒ったり傷ついたりすればそれはあなたが自分自身の事を「ブス」だと肯定してしまっているのです。

あなたは「ブス」ではありません。

あなたの本当の姿はとても美しく光に溢れた存在なんですから。

 

 

~違う世界に住む人々~

例えばあなたはとても痩せていたとします。

それなのに突然「おいデブ!」と言われました。

 

あなたはどう思いますか?

 

「ああ、やっぱりまだまだ私は太っているんだ」

と思ってこれ以上のダイエットをしますか?

それとも

「何言ってるんだろう、私はこんなに痩せているのに」

と思って痛くも痒くもないと思うのか。

 

「ブス」と言われても「死ね」と言われても自分のことだと思って受け取ってはいけません。

大事なことなんで何回も言います。

「自分は美しい」と知っていれば外部がなんと言おうとそれは相手の問題であって、自分のことではないと切り離すことが出来ます。

 

「死ね」と言われてもそれはあなたが「死ぬべき人間」なのではなく、言った本人自身の問題であり、「価値のない存在」なのは言った本人自身が自分に対して思っていることなんです。

 

 人は同じ世界に住んでいるようで全く違う世界に住んでいます。

物事の捉え方や価値観、好みや考え方.......

同じ映画を見ていても全く異なる見方があるように、私たちはこの現実世界をそれぞれが自分の心のフィルターを通して見ています。

 

同じ世界を見て同じことを思っていると考えがちですが、それぞれ全く違った見方や考え方があるだけなんです。

 

誰かに酷い暴言を吐かれてもそれは相手の世界で見えているものなので、あなたの世界とは違うんだと知っておいてください。

 

  

その2へ続く

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

嫁姑問題「あなたは間違っている」と言われても ~その2~

 

 

グチャグチャな心になった私は旦那さんに「実家に帰りたい」と頼みました。

体の変化に気づいたからか旦那さんも少し心配するようになり、一週間の期限付きで実家に帰ることを快く受け入れてくれました。

 

 そして大阪にある実家で1週間リフレッシュをします......。

 

本当はもっと長く実家に滞在したかったのですが、頭でこう考えてしまっていました。「結婚したのだから旦那さんや向こうの家族のところに早く帰らないと!」

これは心からそう思っていたのではありません。

結婚しているからという義務のような呪縛のような感覚です。

 

私はまた自分の本当の想いに蓋をしてしまったのでした。

 

~見せかけのコミュニケーション~

少しの間実家に帰らせてもらったことでまた二世帯生活を頑張ろうという思いになった私は、積極的に旦那さん家族とコミュニケーションを取っていきました。

 

もう自分の中の声よりも周りの人といかに上手く関係を作るかということしか考えていなかったのです。

 

自分の声を無視して麻痺させ、一見上手くいっているような関係に空虚な喜びを感じていました。

お義母さんやお義父さんが帰ってきたら、二階で寝ていても趣味のものを楽しんでいても一階の玄関へ行き挨拶をする。

この儀式は初めのうちは反発して、したりしなかったりしていたのですが、自分の意思が弱まっていくと毎回嫌々するようになっていました。

積極的に関わってくれるようになった私を見て義理の家族は嬉しそうだったのです。

「見せかけだけ上手くいっているような形の何が楽しいんだろう。無理やり関わることがコミュニケーションではない」

と心の中では思っていました。

家に居ても全く休まらない日々でした。

お義母さんとお義父さんが帰ってくる夕方18時頃になるとソワソワして益々落ち着かなくなるのです。

でもこれが旦那さんやお義母さんのしてほしいことならそうするべきなんだろう。

自分にはこの二世帯の姑という絶対的なものからは逃れられないんだろう。

なら上手くいくように頑張ればいい。

そう自分に言い聞かせていました。

 

~転機~

この暮らしに大きな転機が訪れます。

「出産」でした。

私は里帰り出産をぜず、二世帯住宅がある千葉で元気な女の子を出産しました。

 

子供を産んだことがある人にはわかると思いますが、出産というのは言葉で表わすのが難しいくらい神秘的な体験です。

産まれたての子供と触れ合って寝顔を見ていると、心の奥底から「必ず守る」という母性本能が溢れ出てくるのがわかりました。

出産を機に私は嫌々何かをするのではなく、不思議と自分の中からあふれてくるパワーによって突き動かされるようになっていったのです。

言い方には気を使いましたが、今までよりもお姑さんの言う事を必ず聞くということは無くなっていき、自分が決めて思うようにするようになっていきました。

 

しかし産後から一か月過ぎようとしていた時、その日は突然来ました。

 

 

 

その3へ続く

 

 

嫁姑問題「あなたは間違っている」と言われても ~その3~

 ~崩壊~

その日の夜、私と旦那さんは二階で沐浴させた赤ちゃんに着替えをさせていました。

 すると一階からお姑さんの怒鳴り声が聞こえてきたので慌てて階段へ向かいます。

「どうしたんだろう」

そう思い階段をのぞき込むと、鬼の形相のお姑さんと小姑が大きな音を踏み鳴らしながら階段を上ってきています。

「こんな時間に赤ちゃん泣かせて!!!いい加減にしなさい!!」

大きな怒鳴り声を上げながら二人は部屋に乗り込んできました。

夜の21時頃の事です。

怒りでわなわな震えているお姑さんと、沈んだ顔の小姑が床に座ります。

小姑は母親を冷静に止めるために付いてきたような感じでした。

その場で日ごろ私に思っている不満を怒鳴りながらぶつけるお姑さんを、旦那さんも小姑も止めることはできません。

今まで家の中の絶対的な権力者であった姑は、一筋縄ではいかない私が家族に入ってきたことで自分の立場が脅かされる。そういう恐怖が根にあったのです。

「あなたは間違っている!!妹のところのお嫁さんはちゃんと言うことを聞いているのに、そんな風だからダメなのよ!!」

「こんな嫁はいらない!!」

お姑さんは感情的に言い放ちました。

鬼のように感情をぶちまける姿を目の前にして、恐怖で心臓が飛び出しそうでした。

泣き叫ぶ赤ちゃんを抱きかかえながら私の中で何かが崩れました。

「大阪に帰らせてもらいます」

言い合いたくても言い合う気になれませんでした。

ただもう終わりにしよう。

そう決意しました。

 

 

~別れ~

完全に私の中でこの二世帯住宅に住み続けるという選択は無くなりました。

旦那さんにも私の気持ちや今後の事を相談しましたが、旦那さんの中では「喧嘩してでもいいから母親と話し合って関係を構築してほしい。買ったばかりの二世帯を離れる選択肢はない」とのことでした。

 

子供が生まれて一か月を過ぎた日、旦那さんと話し合いをして私は赤ちゃんと二人で大阪に帰ってきたのです。

その後、二世帯に置いてきた荷物を少しづつ送ってもらったり話し合ったりして一年後、離婚となりました。

 

 

 

~嫌な人は人生最大の教師~

離婚した当初は元旦那さんや旦那さんのお母さんに対して強い怒りの感情がありました。

「結婚なんかしなきゃよかった」「二世帯なんか住まなきゃよかった」「あの人が悪い、この人が悪い」

こんな事ばかり考えていました。

そんな中、ある日不思議な夢を見たのです。

 

 

千葉にある二世帯住宅の中でお義母さんが私に抱擁し、

「良かったね、いってらっしゃい」と笑顔で送り出してくれた夢でした。

 

懐かしいものを見たような不思議な感覚になり、その時私は昔に読んだ本の内容を思い出したのです。

 

 

愛と調和で保たれた世界に、二つの光輝く魂がいました。

「ねえ、苦しみってなあに?」

この世界は光に溢れ、愛に溢れてる完璧な世界だったので苦しみや怒り不安といったものがわかりませんでした。

「色々な感情を体験してみたいんだ!ねえどうにかしてくれよ」

若い魂はもう一つの魂に言います。

「なら私が手伝ってあげるよ。違う世界では私が君にとって嫌な奴になるから、君は思う存分色々な感情を味わうといい」

「わあ!本当にいいの?でもあなたはこんなにも完璧な存在なのに、自ら嫌な役を買って出てくれるんですか?」

「もちろんさ。君が成長できるなら喜んで手伝うよ。君がここで交わしたことを忘れて別の世界で私に対して怒り恨み憎しみを感じても、私はあなたを愛しているよ」

「はい!私もあなたを愛しています。ありがとう」

 

 

~許す~

私の結婚生活の初めのころは、嫌なことでも渋々折れたり周りに合わせたり自分の声を無視して麻痺させていました。

誰のせいでもなく、自分で自分の首を絞めていたのです。

自分の心の声を無視すれば、必ず自分の体にサインが出ます。

それを無視して続けていくのか別の行動をするのかは自分の選択次第です。

どちらかが正しくて間違っている、どちらかが良くて悪だというのはありません。

お義母さんも、元旦那さんも自らの正しさや優しさがあって、それを私にわかって欲しかっただけなのかもしれません。

 ただ私の中で一緒に暮らすことは難しいと決断し行動しました。

 

私は結婚して2年足らずで離婚しています。

他から見ると私の行動や選択は短絡的で忍耐力がなく、覚悟のない結婚だったと見えるでしょう。

その通りだと思います。

しかしこれも私の人生のプロセスであり、大切な一部です。

出会いと別れ。

自分自身の変化と環境の変化。

全て過ぎ去ってゆくものであり、変化していくものです。

 

その時には全てが最悪だと思えた出来事や人が後になって無くてはならない自分の大切なプロセスだった事に気が付きます。

 

今すぐに許せなくてもいいんです。

いつか自分を許し、周りを許せるようになったとき、あなたは今よりも高い視点で物事を捉えることが出来るようになっているでしょう。

 

今、辛い中にある人は自分を信じてください。

今ある状況はいつかは過ぎ去るものであり、それがいつか必ずあなた自身や他の誰かを助けてくれる経験となることを信頼してください。