「愛」ってなに? ~その1~
そもそも「愛」ってなんだろうと疑問に思ってしまう事はありませんか?
よく「愛する」とか「愛」という言葉を耳にしたり目にすることがありますが、「愛する」とか「愛がある」ってなんだろうと。
頭でいろいろ考えてしまうとこれは愛がある行為でこれは愛がない行為だときっちり分けたくなりますが、愛を思考で捉えても答えはいつまでも出ません。
愛は感じるものであり、考えるものではないからです。
抽象的に聞こえるかもしれませんが、ハートで心地良いと感じるものすべてが愛なんです。
今この瞬間を楽しみ喜ぶ事もそうですし、感謝すること、自分の欠点も人生も全てこれで完璧なんだと受け入れること、人を裁いたり批判したりせずありのままを認める時、子供の顔を見て溢れてくる気持ち、誰かを許すとき、自分と違う価値観の人の意見を尊重するとき......
様々な状況で「愛」を示し、感じることが出来ると思っています。
必ずしも「愛のある人間にならないと!」とか「思いやりのある人間にならないと」なんて考えたり人に強要しなくていいんです。
「こうあるべき」という考えで外部がその人を更生させたり変化を強要したりしても、その人を変えることは出来ません。
変わったように見えてもそれはその人自身が変わったのであり、あなたがその人を変えたのでは決してありません。
人それぞれにはタイミングがあります。
ピスタチオが熟してくると勝手に殻が開いてくるのと同じように、それぞれ殻が開いてくる時期があり、熟している実は少しの力で殻が完全に剥けてしまいます。
逆に未熟な実はいくら力を入れてもその殻を剥くには難しいでしょう。
それぞれが自分の魂に沿って成長している。
そしてその過程を楽しむか、起こる状況に一喜一憂して振り回されるかは私たち一人ひとりが選択できます。
~愛の皮を被ったエゴ~
「こんなに自分は愛しているのに」と言って相手に同じだけの愛を見返りに求める。
そして相手から見返りがないと怒ったり、不満を漏らし相手に変わってほしいと願う。
よく恋愛でありがちな事ですよね。
さてこれは「愛」でしょうか?
「私は確かに彼の事が好きだし、彼の望むような彼女になっているつもりだし浮気も一切してないし、愛を与えています。彼からの愛をもらいたいと思うのは当然ですよね」
と思うかもしれません。
好きな人から愛されたいと思うことはとても自然なことだと思います。
ただ、愛を相手に与えるも与えないのも本人の自由なのです。
たとえ相手にたくさんの恩があったとしてもそれを返すか返さないかは本人の自由であり、返したければ返せばいいし、返したくないのであれば返さなくていいんです。
それを「やってあげたから」とか「恩を着せる」ようなやり方で相手を縛ってもそれは「相手の為」だと言えるでしょうか。
与えない相手に対して「義理がない」とか「薄情だ」とか決めるのは相手から何かしらの見返りを期待していたという事になります。
それは相手の為ではなく、自分のためにしていた人です。
愛ではなく、相手を自分の都合のいい存在にしたいという自分のエゴです。
本当に愛を与えている人は自分自身が勝手にやっていることを自覚しています。なので相手から見返りがあろうが無かろうがどうでもいいんです。
やりたいからやっている
ただそれだけなんですね。
その2へ続く